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喜多見バオバブ保育園 安松夏威(やすまつ かい)

「できる」ことではなく「今やりたい」こと

 「あれ、まみちゃん大縄? まだ跳べないよね……」
 舞台に上がってきたまみちゃんと対面して、私はとてもびっくりしていました。

 毎年十二月の半ばごろ、私の園では「お楽しみ会」という行事を行っています。表現活動の機会のひとつとして、ホールに舞台が設置され、幼児クラスがクラスごとに劇などに取り組んでいます。それを通して、クラスのみんなでひとつのものを作り上げていく楽しさや喜びを味わうことを大切にしています。
 昨年度、私が担任をしていた四歳児いるか組では、夏から忍者修行の遊びが行われていました。子どもたちは忍者になるのが大好きで、十月の運動遊びを中心にした行事「プレイデー」でも、忍者修行からふたグループで対戦型の「しっぽとり」へとつながっていきました。
 今度は、お楽しみ会の取り組みを始めるにあたり、子どもたちとどんなことをしようか話し合うと、「忍者修行がいい!」「忍者ごっこ」「忍者のおはなし」、子どもたちから出てくるのは忍者のことばかり。拍子抜けするくらいあっさりと決まり、それだけ楽しんで続けてきたからこそだなあ、とうれしく思いました。
 これまで楽しんできた修行、新たに大人が考えた修行、子どもたちの遊びのなかから生まれた新しい修行を描いたカードを作り、毎日子どもたちはそのカードを見ながらその日にやりたい修行を選びます。当日は「忍者村の子どもたち」と題して、子どもたちが忍者学校に通い修行していく様子を物語風にやることとしました。
 お楽しみ会の一週間前の金曜日、部屋を出てホールに設置された舞台の上で、自分の選んだ修行をやってみることにしました。子どもたちはとても張り切って、自分の選んだ修行をしていました。ですが、それが終わってすぐ私に迷いが生まれました。
「音を立てない忍者走り」、「棒のぼり」、「大縄跳び」、「棒ぶら下がり」、「手裏剣」などの修行のなかに、秋のプレイデーで楽しんだ「しっぽとり」もあります。一対一でのしっぽとりでの対決です。グループ対抗でやるのとは違い、とてもスリリングでおもしろいのですが、一対一なので必ずどちらかが負けることになります。
 この日は二十四人の子どもがいるなか、ほとんどの子どもがそれぞれ選んだ修行を成功して終えることができました。うまくいかなかったのは「しっぽとり」を選んだ四人のうちの負けてしまったゆうきくんとれんくんのふたりだけでした。負けて残念な気持ちを味わう人が必ず出てくる「しっぽとり」。それがお楽しみ会という行事のなかで修行の選択肢に入っていることが良いことなのだろうか? という思いが胸に湧いてきました。
 週末をはさんだ月曜日、金曜日に舞台の上でやってみて、みんながみごとに修行していたことをふりかえり、でもそのなかで「しっぽとり」に負けて残念な気持ちになってしまった人がふたりだけいたこと、「しっぽとり」を修行のなかに入れておいて良いか迷っていること、を子どもたちに投げかけ、話し合いました。
 笑顔の忍者と残念な顔の忍者の絵を用意し、金曜日の修行がうまくいったら笑顔の忍者(「ヤッタ-」)に上に、うまくいかなかったら残念な顔の忍者の上に、子どもたち一人ひとりにたずねて大人が手裏剣を置くこととしました。残念な顔のほうには二枚の手裏剣が乗っていました。
 子どもたちに「笑顔のほうと残念な顔のほう、どちらがいい?」と問いかけると「ヤッター全員がいい」「ゆうきくんとれんくんかわいそう」と声があがりました。やはり子どもたちは残念な気持ちになるよりは、ヤッターという気持ちになりたいと思うようでした。
「『しっぽとり』を修行のなかに入れないというのはどうかな?』と重ねて問いかけると、ほとんどの人たちは「入れない」と答えます。
そのなかでしんごくんとりきやくんだけが「入れる」と答えました。ふたりは「しっぽとり」を得意にしていて、ほとんど負けたことがありません。だから「しっぽとり」がなくなってしまうのは納得がいきません。私が「もしかしたら負けてしまうこともあるかもしれないよ」と訊くと、「それはイヤ」。まわりのみんなはもう「しっぽとり」を修行のなかに入れない気持ちになっています。でもふたりは入れたい。そこでしんごくんが「(残念な気持ちになるのが)いやなら選ばなければいい」と提案してきました。
その発言で「しっぽとり」を残すことになりました。
「しっぽとり」をはずすか否かという話し合いを重ねていくなかで、「しっぽとり」に限らず他の修行でもうまくいかないときもあるということに気づいてきました。「しっぽとり」では絶対に誰かが残念な気持ちを味わうことになってしまうけれども、他の修行だってうまくいかないで残念な気持ちになってしまうことはあるかもしれない。けっして「しっぽとり」だけではないよ。そのことを子どもたちと一緒に気づくことができました。それでも子どもたちの様子を見ているとそれぞれが得意にしていたり、「できる」と思っている修行を選ぶことになるだろうという雰囲気を大人は感じていました。金曜日にしっぽとりで負けて悔しい思いをしたゆうきくん、れんくんを見ると、彼らの表情からは何もうかがえませんでした。
 この話し合いの次の日、お楽しみ会の二日前のことです。舞台の上で本番さながらにその日の朝に選んだ修行を子どもたちがひとりずつやっていきました。そして順番が回ってきて舞台にあがってきたまみちゃん。選んだ修行は「大縄跳び」。
 私の胸に浮かんだのが、冒頭のひと言でした。朝、この日にやる修行を選んでいたときには気づきませんでした。「まみちゃん、大縄で良かったの?」心のなかでまみちゃんに問いかけていました。だってまみちゃんはとても十回連続など跳べないのです。
 このとき、やはりまみちゃんは十回続けて跳ぶことができず、何度かひっかかりながら十回跳んで終わりました。
 でも、じつはこの日まみちゃん以外にも、選んだ修行がうまくいかずに終わってしまった人が他にもいました。「うんてい」を選んだとうまくん、しんのすけくんもすべて渡りきる前に落ちてしまいました。とても残念そうな表情を浮かべていました。しかし、この人たちの姿を見て、私はとても大切なことに気づかされたのです。
 まみちゃんは、この日の前日の夕方、初めて大縄に挑戦していました。両足ともベタ足で始めは全然跳べませんでした。それでもまみちゃんはとても頑張り屋で、その日何度ひっかかってもあきらめず、何度も挑戦し、ベタ足のままだったけれども五回跳べるようになりました。
「昨日の夕方初めて大縄をやってみて、少し跳べるようになった。もっともっと跳べるようになりたい。だから今日の修行は大縄をやる」
まみちゃんはきっとこういう思いを持っていたのでしょう。とうまくんもしんのすけくんも「うんてい」を全部渡りきれるかわからないけれども挑戦してみたかったのでしょう。
 前日子どもたちと話し合って、「しっぽとり」を選ぶ人以外は自分が「できる」修行を選ぶものと思っていました。
 大人は「お楽しみ会だから残念な気持ちで終わるのではなく、できた! ヤッターという気持ちで終われたら良い」と思っていました。それはお楽しみ会当日を「本番」と考えてのことです。
 でも、子どもたちにとってはその日その日の修行が毎回「本番」で、自分の「できる」ことではなく、自分が「好きな」「今やりたい」「挑戦したい」ことをやるという気持ちなのだと気づいたのです。「毎回が本番」。それこそが私たちが望んでいたことだったはずなのに、この大切なことを見失っていたのです。
 修行に限らず、何だってうまくいくときもあれば、うまくいかないときもある。でも大切なのは自分で「やりたいこと」「挑戦したいこと」に向かっていくこと、その気持ちを持つこと。子どもたちは自ら育つ力を持っている。子どもはいつだって今の自分よりも大きくなりたいと願っている。それを子どもたち一人ひとりが全身で表現しているのです。その子どもたちの力強い心の声が私の胸に響き渡ったお楽しみ会の取り組みでした。

受賞のことば

 子どもたちと一緒にさまざまなことを考え、いろいろやってみながら、子どもたちの声に耳を傾け、言葉にはしなくても身体で表される心の声を感じるなかで、本当にたくさんのことを学んだ一年であり、振り返って自分はこれまで十分に子どもの声に耳を傾けてきただろうかと自省した一年でもありました。その自分にとって非常に意味深い一年の中のひとつの活動をまとめたものが佳作に選ばれたというのはとても光栄に思います。保育士としての私を支えてくれた子どもたち、保護者のみなさん、そして仲間たちのおかげだと感謝しています。ありがとうございました。

講評

 この保育記録を読んでいると、子どもの心と向き合い保育を進めようとする保育者が必ず体験する、迷いや葛藤、反省、気づきなどがひしひしと伝わってきます。子ども一人一人がもっている良さや可能性を生かすために、保育者はあれこれいろいろ手を尽くし、心を尽くしますが、どんなに綿密に考えたとしても、いざ実践してみると、「子どもの思いは、ここにあったのか」「こうすればよかったのか」等々、子どもの姿から教えられることが多々あります。まさに、それは子どもの心と出会う瞬間であり、保育を再考する場面でもあります。これらを記録に残すことで、保育者自身の子どもを見る目や保育の心が磨かれていくことが大切であり、保育記録を書く意義は、ここにあります。
神長美津子(東京成徳大学)