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学校法人宮本学園 みどりが丘幼稚園 菅原寛子

「先生、ちゃんと聞こえているからね」

 「あれ?K子ちゃんの声、そういえば今、初めて聞いた気がする!」

 K子との出会い

 私はこの4月から年中児25名の担任を任され、進級児と新入園児との対応や支援、子ども達一人ひとりの把握に余念がなく、毎日忙しく過ごしていた。
 そんな時に、いつも私の手伝いを意欲的にしてくれるのがK子であった。
 K子は年少クラスからの進級児だが、クラスも違ったことから会話をする機会は少なかった。会う度に「K子ちゃん、おはよう」と声は掛けるものの返事がない事が特徴的だったのを覚えている。
 当時の担任からもK子は「ダンスも見ていることが多く、絵を描く時も最後まで迷って何も描けないことが多いです。」という話を聞いたことがある。
 しかし、実際に担任をしているとK子は自分の身の回りの事はしっかりこなす事が出来ていた。尚且つ忙しそうな私の姿を察して、手紙の配布を手伝ってくれたり食後のテーブルを拭いてくれたりと、てきぱき手伝いをしてくれていた。そこにはいつも年少からの仲良しの友達数名が一緒にいたので、特に困った要素はひとつも見当たらなかった。
 そんなK子に私は「いつもありがとうね、K子ちゃん!」と声を掛けるのだが、やはり返事はない。表情も硬く、目を合わせる程度であった。
 「きっとまだ私と話すのが恥ずかしいのかもしれない」と、その時は進級当初という事を考えて、深く気には留めないようにしていた。
 K子の母親とも会う機会があったので、「今日もK子ちゃんが一生懸命お手伝いをしてくれたので沢山誉めたんですよ!」と言うと、「家でも、『先生が忙しそうだったから…』なんて面白く言って聞かせてくれますよ。」という答えが返って来たので、少し安心する部分もあった。
 しかし、次第にK子の声が聞こえない事がK子との信頼関係を築きにくくしていると感じる状況に直面する事が多くなっていった。

 言葉によるコミュニケーションが取れない事の難しさ

 ある程度、生活が落ち着いてきた頃の事。「2人組でダンスをしよう!」というと、いつも1人になってしまうK子。私がペアになって一生懸命手を取るが、終始踊る事無く終わってしまった。
 更に、朝の会等の一斉活動になると、不安そうな表情になり、静かに座ったまま全く反応が無くなることが多かった。
 年中児に進級すると、年少児よりもグループでの活動意欲が高まり、集団で協力して何かをやり遂げて行く事に楽しみが見出せるようになる。K子にもそうなってほしいと思い支援しているのだが、K子にとってはそれが不安やストレスになってしまうようだった。
 私のクラスにはK子の他にも、一斉活動や話し合うといった際に緊張して話せなくなってしまう子が3名ほどいる。皆、女児である。この3名に関しては、発表する時以外はよくしゃべるので、私や友達ともコミュニケーションが取れている。
 K子だけが、どうしても私と話が出来なかった。友達の輪の中にも入りづらいという日が続き、支援に悩んだ。
 K子は、給食の時間も苦手だ。ほとんど手を付けないまま残してしまう日が続き、最初のうちは私も「無理しないでいいよ」と言っていた。だが、他の子には「苦手なものでも1口はチャレンジしよう」と伝えている手前、K子だけ特別なのはどうかと思い、「一緒に食べようね」「頑張ろう!」と励まし続けた。しかし、それがまたもやK子にとってストレスになってしまったのか、腹痛を私に訴えられず、他の子が教えに来てくれたという事もあった。
 「このままK子と話が出来ないと、ますますK子の事が分からなくなってしまう。信頼を築く事が出来なければ、この先の色々な行事をどう乗り越えて行けばいいのだろう。」K子のような子を受け持ったのが初めてで、しばらく悩む日が続いた。場面緘黙症についてよく調べ、昨年度の担任からは、K子の特徴や行事の参加の仕方はどうだったか等の情報を集める事にした。それでも、私の不安は増すばかりだった。

 K子にとってリラックスできる環境作り

 5月の連休明けに、家庭訪問の機会があり、K子の母親とK子の園での状況を話し合う事が出来た。
 母親は状況を良く分かっており、「K子はなかなかしゃべらないと思うんですけど、帰って来ると先生の事が好きって言って、習った歌を歌っているので、心配はしていません。」との事だった。
 「いつもお手伝いをするのも、先生に褒めてもらえる嬉しさをK子は知っているからですよ。」
 「他の子よりも時間は掛かると思いますが、楽しいと思える経験を沢山して、無理せずいつか皆の前でも自然に言葉が出てくるのを待ちます。」
 これらの母親の意向を聞いた時、一気に目の前が開けた気がした。自分一人で無理をして言葉を引き出そうとしなくても良いのだと気付いた。今までは、「○○しようよ!」と明るく振る舞い、兎に角一緒にいる事で信頼を築こうと思ったり、「○○だよね?」と一方的に話し掛けたりすることが多かった。
 敏感なK子は、そうした私の焦りも感じ取っていたかもしれない。
 それは、K子にとっても大きなプレッシャーだったのではないかと思う。
 それよりも、まずは私自身がK子にとって安心できる存在であること。
 言葉によるアプローチだけではなく、視線やスキンシップでのコミュニケーションを重ねる事で安心につながっていくのではないかと気付いた。
 それからしばらくの間、私はK子に対してゆったりと接する事を心掛けた。
 そして5月の後半に入ったある日のことだった。「いつもK子ちゃんは、折り紙きれいに折れるんだね。」と声を掛けたところ、「先生にあげる。」とK子が言葉を返してくれたのだ。小さいけれど、確かに聞き取ることができた。近くにいた他の子からも「K子ちゃん私にも同じの作って。」と言われ、K子が「じゃあ、教えてあげる。」と言い、その日は折り紙コーナーが盛り上がったのだ。私は嬉しくなって、母親にもK子の変化を伝えたところ、ほっとした様子だった。
 それからのK子は、見違えるように表情も良くなった。
 プール遊びでは、友達と水を掛け合ってはしゃぐなど、活動にも意欲的に参加するようになっていた。
 夏休み前になると、休日に家族で出掛けた事なども話してくれるようになるまで打ち解けた。
 しかし、これからは運動会や劇場ごっこ等、大勢の人が見に来る行事が多くなる。K子にとって不安や緊張が強くなることも増えてくるだろう。またK子の声を聞き取る事が難しくなってしまう時がくるかもしれない。
 だが、今は不安はない。言葉以上に心がつながり合えていると、今は思えるからだ。
 そんな時は、K子やクラスの子ども達と共に乗り越えて行けたら良いと思う。

おわりに

 日常でもつい聞き逃してしまう、子ども達のつぶやき。K子のように、自分から言葉を発することに緊張してしまう子は余計に拾い上げるのは難しい。K子のような子への理解は、今後も必要になってくるだろう。じっくりと、心の声に耳を傾けていくことを、これからも忘れずにいたい。そして私は「K子のメッセージは、先生いつも聞こえているからね。大丈夫だよ。」
 そう胸を張って言えるような、そんな保育者でありたい。

受賞のことば

 この度は受賞の機会を与えて頂き感謝しております。私はこの幼稚園を卒園した教諭として勤務し始め、はや5年が経とうとしています。保育者の役割のひとつとして大切に思うのは、子ども達の心の葛藤と向き合い共に乗り越えて行くことです。一人ひとりの個性や成長過程の違いを考えて支援するのは本当に難しいと感じますが、ふとしたきっかけで次のステップへ駆け上がっていく力強さを間近で見届けられる事に、私も大きな自信を得られています。

 余談ですが、11月に行われた劇場ごっこで、K子は大勢の前で台詞や歌を楽しそうに表現できました。この感動は、周りの先生方の支えや保護者の方の理解があってこそ…。そして、幸せを感じさせてくれる子ども達に、この先も感謝できる保育者であり続けたいです。

講評

実践記録(論文)にしても物語にしても随筆のようなものでも、全体を三部で構成していくということは文章を書く上での基本です。言うまでもなく「序論、本論、結論」です。特に結論(おわりに)は、実践記録(論文)の最も主要な部分です。実践の結果から得られた見解を明記し、残された課題などをしっかり押さえておきます。残念ながらこの実践記録の惜しいと思われた部分はこの結論(終わりに)が弱いことでした。K子のような場面緘黙の子に対しては、言葉を言わせよう言わせようとするのではなく、目に見えない心のやりとりを豊かにしていくことで人とのコミュニケーションが生まれる重要さをつかんだことはとてもよかったのですが、「じっくりと心の声に耳をかたむけていくことを忘れずにいたい」という文章だけの記述で終わっていました。場面緘黙の子どもが持っている「自分の思いを率直に表現できない意固地さや、集団生活での緊張度が高いこと」をもう少し他の視点からも考察してみることが必要だったと思います。例えば「遊ぶことの楽しさを実感させていくこと、友だち関係をしっかり支えながら集団活動へと発展させていく援助など」も言及し考察できるとよかったです。
質の高い乳児保育を目指す実践研究会代表 今井和子