菜の花保育園(山梨・甲府市) 石田 幸美
「サイフォン遊び -- 砂場での挑戦」
私が菜の花保育園の立ち上げにかかわってから9年が過ぎた。
主任保育士という立場での現在の私は、担任を持てない寂しさに、最初は何度も現場に戻りたいと思った。しかし、最近は主任保育士だからこその喜びを感じられるようになった。というのは、主任になって個々の子どもの興味、関心とじっくりと向き合い、子どもを点としてではなく、線で追いかける時間が増え、それによって、そのとき接する子どもの願いが感じとれるようになったからだ。
砂場にできた 大きな水たまり
当園に入園して4年目になる年長児のRくん、少し気弱な面はあるが、体を動かすことが大好きである。しかし、食べ物の好き嫌いが多く、食べる意欲が少ないと担任も悩んでいた。そして一斉で行う制作などの活動にも今ひとつ意欲的でなく、ぼーっとしている姿も多く、職員会議でも時折、「どうしたら意欲を引き出せるか?」と話題に上がる子どもであった。
そんなある5月、前日降った雨で砂場にかぶせたシートの上に大きなプールのような水たまりができた。職員はシートにたまった水を掃き、シートをはずし、いつもの砂場遊びへと環境設定をしようとしていた。私はふと「こんなに大きな水たまり、子どもがどうするか見てみたい」と思いつき、「ちょっとこのまま待ってみない?」と職員に伝えてみた。みんなも賛同してくれ、様子を見ることにした。
さっそく年長児がふたり続けて登園してきた。ひとりはRくんだ。
「わ~お池みたい!」
「本当だね」と私。
「先生、遊んでいいの?」
「もちろん」
「みんなが来たらプールみたいにして……」
「そしてどうする?」
「う~ん後から考える」
「まかせるよ」
いつになく輝いているRくんの目に、私は「今日は何か起こりそうですね~」と園長先生に話した。
その後ひとり、ふたりと登園してきた友達に、Rくんは「この池で遊ぼうよ」と声をかけ、率先して裸足になり遊び始める。それを見た3歳以上の子どもたちも次々に靴下を脱いで池に入り始めた。服はびしょ濡れ、きゃっきゃと少し早いプール遊びとも泥んこ遊びともつかぬ遊びが続いた。
ホースからひとりでに 水が流れ出す不思議
40分ほど経過したころ、園長先生がホースを持ってやってきた。
「ちょっと見ててごらん」と、水を入れたホースの両端を指でふさぎ、片方の口を水たまりの中に入れた。そしてタイミングよく指をはずすと、低いもうひとつの口から水が流れ始めた。サイフォンの原理だという。
不思議そうに見ている子どもたち。3回、4回とやっているうちに、RくんとAちゃんが「ぼく(わたし)もやりたい」といってきた。
「いいよ、やってごらん、こうやって空気を入れないようにしてさっと手を離す……」と園長先生がコツを教えてくれた。
「わかったRくん、そっちもって」
「よし、わかった」
しかしふたりは何度もやってはみたけれど、成功しない。5回、6回……。
「もっとちゃんともってよ」とAちゃん。
「僕だってちゃんとやってるんだ」
と涙ぐむRくん。
「でも、もっとちゃんとやって」
「わっ、わかった……」
主導権はAちゃんが握っている。
それまでじっと見ていた3・4歳児は「お腹すいた~」とお部屋に入っていってしまう。しかし、年長児は、ふたりを見て無言であった。
挑戦を始めてから1時間以上経過。時計の針はすでに12をまわっていた。見かねた園長先生が「午後にするか」と声をかけた。「やだ」とふたりは険しい顔でいい、ひたすら挑戦を続ける。いつしかまわりの年長児は、挑戦の回数を数え始めていた。
29…、30…、31…、
「できた!!」「できたよ!」
ふたりは同時に声をあげた。
一度成功すると、それからは何度やっても成功する。
「すごい、できてる。その調子、Rくん」「うん」と笑顔を見せ合う。すでにふたりとも汗、泥、水、涙…でぐちゃぐちゃ……、でも、とってもいい笑顔!!
砂場の枠を越えたホースからたくさんの水が園庭に流れ出した。すると、それまでじーっと様子を見ていた年長児の男児が動き出した。
「川を作らなきゃ~」とスコップを持ち出し、溝を掘り始めたのだ。AちゃんとRくんの息はピッタリ。「離すよ」「せーの」……「出た!」。水は川を伝って流れ出す。
やがて川作りをしていた子どもたちも、「お腹すいたな~」といって、部屋に入り始めた。ふたりはどうするのかな? と思ったが、担任と相談して、ふたりの意思に任せることにした。「全部水を出したい」というので、その場をふたりにまかせ、私も担任もいったん部屋に入ることにした。
しばらく経ってから、「終わった!」という声が聞こえた。とうとう最後まで、水を出し終えたのだ。時計を見るともう午後1時を過ぎていた。「そろそろご飯食べる?」とAちゃん。「うん、そうしよう!」。ふたりは満足そうに部屋に戻ってきた。
みんなに「ただいま~」と大きな声でいいながら、清々しい顔つきであった。まわりの子どもたちは給食時間が終わってしまったことなどをとがめる様子はなく、「おかえり」「ごくろうさま」と迎え入れる姿があった。
その後のことは、担任から話を聞いた。担当保育者が「終わったの?」と声をかけると「ばっちり!」と満面の笑み。保育者と3人で給食を食べたそうだが、ふたりとも、驚くほどの食欲であったとのこと。
その日を境に、Rくんは、何事にも意欲的になったようだ。人はやりたいことを存分に納得いくまで、時間を忘れてでも行うことで、自信へとつながっていくのだと感じた。
子どもの育つ瞬間に 立ち会えた喜び
私がしたのは、砂場の水たまりをそのままにしておくという、最初のきっかけを同僚の保育士に与えただけ。あとは少し距離をとって、子どもたちの様子を観察していた。何をやったわけではないが、ドキドキハラハラしながら時の経過を共有していた。しかし、なんて素敵な瞬間に出合えたのかと思う。こんな瞬間こそ子どもの育つときなのだと改めて感じた。
これからも、子どもの興味、関心に敏感でありながら、子どもと日々直接かかわる保育士の気づきのきっかけづくりとして、主任の立場でアドバイスを行っていきたい。また自分自身も一保育者として、子どもの一生懸命な姿に、いつまでも感動できる人間でありたいと思っている。
受賞のことば
このたびは、大賞をいただき、本当にありがとうございました。
子どもの「もっとやりたい」の気持ちを大切にしたいという思いで、試行錯誤しながら保育しています。子どもたちに葛藤や迷いがあるように、保育者にも葛藤や迷いはつきものです。そんなときは「子どもの湧き出る思いを大切に!」を合言葉にして同僚と保育を進めています。
そしてもうひとつ大切にしているものが「環境」です。今回は、偶然できた自然現象をそのままにしてみたらおもしろいかも……という私の遊び心から展開していったエピソードを投稿しました。
園長先生、職員の方々、子どもたち、そしていつも支えて下さっている保護者の皆さんにも感謝の気持ちでいっぱいです。
ちなみに……その後のRくんですが、毎日好奇心旺盛で、意欲的です。そして今では、Aちゃんとふたり、金魚の水槽の水まで「サイフォン遊び」で替えています(笑)。
講評
この保育記録は、主任の立場から、「子どもの育ちにどうかかわるか」を提案しています。RくんとAちゃんが、砂場での挑戦をくり返してとことん遊び込む姿のなかに、ゆったりとして流れる「子ども時間」を感じます。そして、それは、いつになくはりきっているRくんの取り組みに対し、「何をやったわけではないが、ドキドキハラハラしながら時の経過を共有していた」という保育者のかかわりによって醸し出されている保育環境です。
國學院大學教授 神長美津子