日本で唯一の動物園ライター。千葉市動物公園勤務のかたわら全国の動物園を飛び回り、飼育員さんたちとの交流を図る。 著書に『ASAHIYAMA 動物園物語』(カドカワデジタルコミックス 本庄 敬・画)、『動物園のひみつ 展示の工夫から飼育員の仕事まで~楽しい調べ学習シリーズ』(PHP研究所)、『ひめちゃんとふたりのおかあさん~人間に育てられた子ゾウ』(フレーベル館)などがある。
- 第80回ぼぉとする動物園
- 第79回動物たちのつかみどころ
- 第78回動物園がつなぐもの
- 第77回サメのしぐさを熱く観ろ
- 第76回泳ぐものとたたずむもの、その水辺に
- 第75回ZOOMOの動物のことならおもしろい
- 第74回それぞれの暮らし、ひとつの世界
- 第73回京都市動物園はじめて物語
- 第72回ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの名にあらず
- 第71回尾張の博物学 伊藤圭介を知っていますか
第80回ぼぉとする動物園
●訪れた施設:沖縄こどもの国、台北市立動物園、横浜市立野毛山動物園
こんにちは、動物園ライターの森由民です。ただ歩くだけでも楽しい動物園や水族館。しかし、 動物のこと・展示や飼育の方法など、少し知識を持つだけで、さらに豊かな世界が広がります。そんな体験に向けて、ささやかなヒントをご提供できればと思います。
●今回ご紹介する動物:島ヤギ(ヒージャー)、カンムリワシ、ミヤコカナヘビ、クリハラリス(タイワンリス)
ほうとする程長い白浜の先は、また、目も届かぬ海が揺れてゐる。其波の青色の末が、
自づと伸しあがるやうになつて、あたまの上までひろがつて来てゐる空である。
民俗学者・折口信夫はその名も「ほうとする話 祭りの発生 その一」という論考をこのように書きはじめています。
そして、叙述はほどなくこんなエピソードとなります。
遠目には、磯の岩かと思はれる家の屋根が、一かたまりづゝぽつつりと置き忘れられてゐる。炎を履む様な砂山を伝うて、行きつくと、此ほどの家数に、と思ふ程、ことりと音を立てる人も居ない。あかんぼの声がすると思うて、廻つて見ると、山羊が、其もたつた一疋、雨欲しさうに鳴き立てゝゐるのだ。
これは沖縄本島に関する部分なので、ここに登場するのは琉球列島の在来のヤギと思われます。
たとえば、こんなものが琉球列島の「島ヤギ(ヒージャー)」です(沖縄こどもの国にて撮影)。
かうした知らせたくもあり、覚らせるもいとほしいつれづれな生活は、まだまだ薩摩潟の南、台湾の北に列る飛び石の様な島々には、くり返されてゐる。でも此が、最正しい人間の理法と信じてゐた時代が、曾ては、ほんとうにあつたのだ。古事記や日本紀や風土記などの元の形も、出来たか出来なかつたかと言ふ古代は、かういふほうとした気分を持たない人には、しん底までは納得がいかないであらう。
以前にもご紹介しましたが、琉球列島はまさに九州と台湾の間に連なり、さらにまた一部の島の生物相には中国大陸とのつながりも窺えます。
カンムリワシは台湾ひいては中国大陸や東南アジアと琉球列島南部に共通した動物のひとつです。写真の左が日本固有亜種(沖縄こどもの国)、右が台湾固有亜種(台北市立動物園)です。
一方では、南琉球と台湾のカンムリワシが同種ではあっても、それぞれの地域固有の亜種に分かれているように、多くの島々から成る琉球列島のなかでもさまざまな多様性が生まれています。こうして、琉球列島には人間の定めた国境とはまたちがった「動物たちのくにざかい」を読み取ることができるのです(※1)。
※1.詳しくはこちらをご覧ください。
「動物たちのくにざかい」
ミヤコカナヘビは宮古島と周辺の離島に生息する固有のトカゲです(横浜市立野毛山動物園)。同じ琉球列島の他の島の、見た目もよく似たカナヘビ類より、台湾や中国大陸のカナヘビ類と近縁であることがわかっており、この飛び石状の展開の理由が探られています(※2)。
※2.こちらの記事もご覧ください。
「動物園がつなぐもの」
トカゲが岩の上に横たわっている、と私たちが言うとき、私たちは「岩」という語を抹消するべきであろう、トカゲがその上に横たわっているその物は、確かに何らかの仕方でトカゲに与えられてはいるが、しかし岩として認知されているわけではない、ということを示唆するために。この抹消が意味するのは、単に何か違った物が、何か違った物として出会われているということではなくて、そもそも存在者として接近できていない、ということなのである。
カナヘビの話から続けると、哲学者のハイデガーはトカゲについて上記のように述べています(※3)。岩を岩として認識しないトカゲは、わたしたちと同じこの世界にいながら、ある意味ではわたしたちより乏しい感覚しか得ていないとも言えますが、一方でわたしたちは決してトカゲにはなれないので、トカゲにはトカゲの世界があるのではないかとも想定できるでしょう。
※3.ハイデガーについては、こちらの文献を参考・引用しています。
串田純一(2017)『ハイデガーと生き物の問題』法政大学出版局
実際、ハイデガーはこんなふうにも書いています。
どんな動物もいかなる動物種も、それぞれ独自の仕方で囲みの環を摑み取り[erringen]、その環で或る領域を囲んでそれと自分を嵌め合わす。[……]動物たちの振る舞いの諸連関と駆り立てとが動くのはこの環の範囲内においてなのだが、しかしこの諸々の環は単に並んでいるのでも上下に重なっているのでもなく、相互に延浸し合っているのである。例えば、カシの樹皮に穴を開けるキクイムシはそれに特有の環を持っている。しかしこのキクイムシの環はそれ自身がまた、ということはつまりそれの環と共に、この虫を探っているキツツキの環の内部に丸ごと入っているのである。そしてこのキツツキもさらに、以上の全てと共に、動き回ってキツツキを驚かすリスの環の中にいる。動物界における捉われた環たちのこのような開かれの全体的関係は、その内容も関わり方も、私たちがどうにか予感することしかできないほどに途方もなく豊かである。
台湾についても触れてきたので、こちらは台北市内の公園で出逢ったクリハラリス(タイワンリス)です。日本では神奈川県南東部などに移入し、外来種として問題となっていますが、台湾では自然分布です。
人間は他の動物よりも幅広い認識の世界を生きていると言えるでしょうが、他の生きものたちもまた、それぞれ独自に、そして互いにつながりあう環境世界を持っていると考えられるのです。ハイデガーよりやや上の世代の生物学者でハイデガーとの影響関係も見られるユクスキュルは、このような生きものたちそれぞれ固有の環境世界を「環世界」と呼んでいます(※4)。
※4.ハイデガーは人間をかなり特別視しているように映りますが、ユクスキュルは人間もまた人間なりの環世界のなかにおり、あるいは自然を探究する科学者たちも、それぞれの学問ごとの環世界を持つのだ、というように考えていたと捉えられます(下記の文献を参考にしました)。
ユクスキュル、クリサート(2005)『生物から見た世界』岩波文庫
折口信夫は琉球列島と日本古代を重ね合わせつつ、そこで生きる人びとに、いまここにあるわたしたちとはちがう世界を想い描き、それを感じ取るにはわたしたち自身が「ほうとする」感覚で日常から浮遊してみることだと説いていると思われます(※5)。
そうであるなら、人間とは異なる生きものたちの世界を感じるには、さらにいろいろな人間的見方や意味づけを一旦手控えて、そこに立ち現れてくる世界を味わうべきでしょう。
ハイデガーは「退屈」を3種類に分けています。列車を待つというはっきりした目的を持ちながら待たされているという退屈。暇つぶし的なパーティーのような、それ自体、目的と言い切れないもののなかにいるときの退屈。そして、なんで退屈なのか自分でもわからない、いつ始まったかもはっきりしないし、いつ終わるともつかないものとしての第3の「退屈」です。この第3の退屈がもっとも「深い退屈」であり、ハイデガーはそういう退屈に気づき、味わう時にこそ、わたしたちを包み込んで全体としての世界と呼ぶべきものが広がるのだと述べています。わたしたちは、「深い退屈」のなかでこそ人間的な自分自身からはみ出していけるのかもしれません。
※5.琉球に日本の古代と文化的・歴史的につながるものを見出そうとする折口のありようが適切かは、現在の学問の目であらためて検討されていかなければなりませんが。
わたしは動物園や水族館に取材してものを書いています。当然、それなりの見通しをもって取材をしており、目的性のある振る舞いをしています。
しかし、本当に好きなのは動物園でぼぉとすることです。ベンチに座ったり人止め柵に凭れたりして、動物たちのありよう(別に向こうもぼぉとしたり眠ったりしていてくれてよいのです)や何ということもない人びとのざわめき、風のそよそよとした動きや、移りゆく日の光、そういうものにただ身を委ねているのは、わたしにとっては動物園での一番贅沢な過ごし方です。それこそがハイデガーの「深い退屈」につながるようにも思うのです。
動物園でぼぉとしたいです。
写真提供:森由民
◎沖縄こどもの国
◎台北市立動物園
◎横浜市立野毛山動物園
前の記事:第79回動物たちのつかみどころ